【興津】清見寺は家康が手習いに通った由緒あるお寺。侘び寂びを感じさせる庭は必見!

観光

境内をJRの線路が横切るという一風変わった清見寺ですが、歴史は古く建立から1300年以上経つと言われています。地味ですが趣のある庭園があり徳川家康と縁の深いお寺です。まだ行っていないかたにはぜひ足を運んでいただきたいC.Kオススメのお寺です。そんな清見寺の歴史、見所、徳川家康とのご縁、御朱印などについてまとめました。

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2023年大河ドラマ「どうする家康?」にも取り上げられるかも

徳川家康は幼少の頃今川義元の人質として駿府で暮らしていました。

徳川家康(東照大権現)

当時家康は今川義元と繋がりの深かった清見寺住職太原和尚(第一世)に師事し清見寺で勉強をしていました。境内の建物大方丈には「家康公手習の間」などの遺構が残されています。

また 1600年(慶長5年)奥州征閥、関ヶ原の戦いの途中 清見寺に立ち寄っていますし、大御所となり駿府に隠居してからも当時の住職大輝和尚(第三世)に帰依し、再三にわたって清見寺を訪れています。

今では倉庫などが立ち並び景観が良くないですが同時は風光明媚であり、家康から深く愛されたようです。

境内には徳川家康手植えの「臥龍梅」があるほか、家康が五木三石を配置したと伝えられる書院庭(国の名勝)があります。

多くの天皇、武将、文化人に愛された清見寺の歴史

奈良時代

約1300年程前の白鳳年間(7世紀後半)、天武天皇朝の頃、関所が設けられ、清見関と呼ばれそのかたわらに関所の鎮護として仏堂が建てられました。この仏堂が清見寺の始めと伝えています。


平安時代

天台宗の寺院であったと思われます。


鎌倉時代

禅宗に改められ鎌倉時代の中頃に関聖上人(無伝聖禅禅師)が清見寺を再興しました。


室町時代

足利尊氏は、深く清見寺を崇敬し、清見寺山頂に利生塔(りしょうとう)を建立して戦死者の霊を慰めました。また室町幕府は清見寺を官寺と定め、日本を代表する寺「全国十刹」(じっせつ)の中に置き保護しました。

足利氏と祖を同じくする今川氏も清見寺を保護しました。六代将軍足利義教が駿河富士遊覧に来た時には、今川範政(駿河今川4代当主)がこれを迎え清見寺にて和歌などを詠んで風流な遊びを楽しみました。

この時代には画僧雪舟も清見寺に来て、後年富士・三保・清見寺の景色を画いています。

雪舟(1421-1507)の作と伝えられる水墨山水画、“富士三保清見寺図” 左に清見寺、清見潟、右には三保。

戦国時代

お寺の地形(山、海にせまっている)が自然の要害となり、今川・徳川・武田・北條等の戦国大名がその都度清見寺に陣をしき城として使用される事がしばしばありました。

そのため清見寺は戦禍を受けて荒れ寺となりましたが、今川義元(駿河今川氏11代当主)の後援を受けた太原崇孚禅師が清見寺を復興しました。

幼少の徳川家康が手習いに清見寺を訪れています。


江戸時代

家康の三女静照院殿より彿殿の本尊釋迦弁尼仏と大方丈の大玄関の寄進を受けました。これらの縁により、清見寺は三葉葵の紋を許され江戸時代260年の間、二百余石の朱印地を有し徳川一門の帰依を受けています。

また朝鮮通信使の接待所としても活用され、福禅寺(広島県福山市鞆町)、本蓮寺(岡山県瀬戸内市牛窓町)とともに、朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されています。

通信使や随員たちの書蹟や絵画など、歴史資料が多数保存され、「朝鮮通信使に関する記憶」が世界記憶遺産に登録されています。

幕末には14代将軍徳川家茂が京都にいく途中に立ち寄っています。


明治時代

明治2年と同11年、明治天皇、その後大正天皇が皇太子時代に海水浴のため度々訪れており、時には滞泊される事もありました。


大正、昭和、平成

昭和11年、清見寺庭園が文部省より名勝に指定され、12年には歌人与謝野晶子が清見寺を訪れています。


歴史の教科書に載っているような歴史上の人物の名前がたくさん出て来ますね。また参勤交代などの折にも宿泊施設として利用されてもいます。

「見所」侘び寂びを感じさせる庭園と建物

庭園

滝が流れ落ち池に注ぐ馬蹄型の庭園です。家康公が五木三石を配置と言われています。国指定の名勝です。私が行ったのは1月なので緑がなく寂しい感じですが春から秋にかけてなら美しい庭園が見られると思います。

書院から庭園をのぞむ 出典:庭園ガイド 

五百羅漢石像(ごひゃくらかんせきぞう)

本殿の裏地の傾斜に素朴な作りの石仏が配置されていました。人があまりいないので日中でも少しもの寂しい感じでしたが苔むした石仏が歴史を感じさせます。

1783年(天明3年)の浅間山の大爆発に起因する天明の飢饉で、人身の荒廃に心を痛めた清見寺の塔頭・臨海寺の志広和尚の発願で1793年(寛政5年)に完成しました。作者は不明です。

島崎藤村のほか、夏目漱石北原白秋与謝野晶子など多くの文人も足跡を残す名刹です。

優しいお顔の石仏さま

総門、山門

駐車場からの階段を登ったところにあるのが総門です。

その後高架を渡り見えるのが山門。山門は1651年(慶安4年)に建築され釘を一本も使用していないというのが特徴です。

高架を渡ると見えてくる山門

西の間の奥には徳川家康「手習いの間」があります。

大方丈(おおほうじょう)

家康の手習の間 出典:岡山 太陽の側の果樹園 

大玄関

元和2年(1616年)徳川家康 三女正清院の寄進で建築されました。

玄関の天井板は清見関の古材、戦いで絶命した際の血痕が付いた建物の床板・縁板を、供養などのため天井に張り替えています。血天井といわれるものです。

私が行った時には参拝者が少なくお寺の奥様?に詳しく説明をしていただきました。血天井などというと少し怖い気がしましたが供養のためなのですね。

大玄関の血天井 出典:庭園ガイド

書 院

静岡市指定文化財。
天皇陛下御宿泊 玉座之間があります。

玉座
書院

鐘 楼(しょうろう)

1590年(天正18年)4月豊臣秀吉が伊豆韮山城攻伐の際、陣中に於いて使用したと云われています。

鐘楼(奥に潮音閣)

潮音閣

朝鮮使節団などが宿泊する施設です。階段を登って2階に行くと海の見える南、東、西にはは壁がなく一面大きな窓が。とても明るく見晴らしの良い部屋です。眼下には駿河湾、右には日本平、遠方には伊豆が見えます。当時は景色が最高のおもてなしになったのだと思います。現在は埋め立てられ倉庫やクレーンなどが見えてとても残念です。

出典:TRVEL MAR-KAR

境内を線路が横切る珍しい景観となったのはなぜ?

清見寺は総門と山門までの間が線路で分断される珍しい景観です。お寺に入るには駐車場に車を止めてまず階段を登り(スロープもあり)総門をくぐりそこからJR東海道線の高架橋を渡って山門にたどり着きます。

なぜ?こんなことになったのか気になったので調べてみました。

東海道線ができると決まった時にぜひ興津に駅を設けて欲しいと、隣の清見寺をもつ清見寺町の住民も巻き込んで熱心な誘致運動が展開されました。

その時に清見寺は境内の一部が鉄道敷地として召し上げられ、景観が損なわれた事に対する補償金が支払われましたが住職はそれを献納したといわれています。

そして明治22年に東海道線が開通し今のような景観になりました。

私はこの景観を面白いと感じていましたが、線路が情緒を台無しにしているという意見も多数あります。清見寺を訪れた山下清画伯もこのお寺を見て違和感を感じていたようです。

清見寺の看板に書かれていた「清見寺スケッチの思い出」(山下清)

清見寺という名だな

 このお寺は

 古っぽしいけど上等に見えるな

 お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのは

 どういうわけかな

 お寺より汽車の方が大事なのでお寺の人はそんしたなお寺から見える海は

 うめたて工事であんまりきれいじゃないな

 お寺の人はよその人に自分の寺がきれいと思われるのがいいか

 自分がお寺から見る景色がいい方がいいか

 どっちだろうな 

 
 引用:HP 静岡戦後70年 清見寺訪れた山下清

画伯らしいとても素直な感想ですね。

数年前までは清見寺には山下画伯の清見寺を見た時の感想が書かれた看板がありましたが台風による破損で現在は撤去されてしまっています。

総門と山門の間を東海道線の線路が横切る

御朱印、料金、アクセスなど

住所静岡県 静岡市 清水区興津清見寺町418-1
電話TEL:054-369-0028/FAX:0543-60-0033
アクセスJR興津駅より徒歩15分、清水ICより車で約10分
JR清水駅から三俣山の手線バス乗車、清見寺前下車、徒歩すぐ
営業時間8:30~16:30
拝観料無料
建物内見学有料
大 人:300円
中高生:200円
小学生:100円
駐車場15台/無料
御朱印300円
HPhttps://seikenji.com/index.html
清見寺御朱印

まとめ

いかがでしたか?清見寺は地味ですが歴史があり、とても趣のあるお寺です。徳川家康好き、歴史好き方にはおすすめです。また混雑していないのでゆっくりと過ごしたい方にもおすすめです。

2023年のNHKの大河ドラマは松本潤さん主演で「どうする家康」に決定しました。

もしかしたら清見寺のエピソードもあるかもしれませんね。

C.Kおすすめの清見寺、ぜひ一度行ってみてください。

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