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【フジ大奥】うな重は徳川家重の「重」関係がある?ドラマの話は本当なのか検証!

フジ大奥うな重は徳川家重の重と関係がある? エンタメ
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フジテレビの大奥の放送が始まりましたね。1話を視聴したのですが、気になったのは田沼意次が徳川家重にうな重を献上したシーン。

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「家重様の重をとってうな重と名づけました」みたいなことを言っていて「そうなの?」なったので本当かどうか調べてみました。

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うな重に「重」がつく本当の理由

本来「うな重」は「ご飯の上に鰻の蒲焼を乗せて、その上にまたご飯と鰻の蒲焼を乗せる」という作り方をしていました。

え?ご飯の上に蒲焼きの上にまたご飯に蒲焼き?なんて贅沢な!
と思うほどの贅沢さですね。

重ねるからうな重。当たり前というか見た目的にそうなんですけどw

でもお店でうな重を頼んでも「ご飯の上に蒲焼きの上にまたご飯に蒲焼き」なんてみた事ないですよね。

現在ではこの盛り方だと量が多くなるのとお値段が高価になりすぎるのでほとんどのお店では取り扱っていないようです。

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うな重は徳川家重の「重」から取ったと言われるのは嘘?

ではこの説が全くの嘘だったと言われるとそうでもなさそうなんです。
男女逆転大奥でもうな重の話は出てきますし
徳川家重はとてもうなぎが大好きだったことが知られています。
うな重はこの時代に考案されたと言われていることから、徳川家重の「重」をもじったと言われるようになったと推察されます。

もしかしたら「うな重」はドラマのように徳川家重のために開発されたメニューかもしれませんね。

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うなぎが一般的に食べられ始めたのは徳川家康の時代

徳川家康が江戸を都にするために江戸湾の干拓をしました。
干拓によってできた湿地に住み着いたうなぎが沢山取れるようになりました。

1657年3月2日に起こった明暦の大火で江戸の大半が焼け落ちてしましまい、復興の労働者の食事として安い値段で屋台などで食べられるようになったのがうなぎが庶民に食べられるようになった最初だと言われています。

この当時のうなぎの食べ方は蒲焼きではなく、ぶつ切りにして串にさして焼いたものだったという話です。鮎や川魚の串焼をイメージするとわかりやすいかも。

その様子が蒲の穂に似ていることから「蒲焼」と呼ばれるようになりました。

この時はうなぎは一般庶民の食べ物でしたが江戸中期頃になるといつの間にか身分の高い人しか食べられない食材に。

タレなどで蒲焼として食べるようになったのは徳川家重の時代からと言われています。

この時代に江戸近郊で濃口醤油が開発され、みりんも調味料として使われるようになってうなぎのタレが開発されたんです。

うな丼が出来たのはうな重よりずっと後の江戸の後期、日本橋堺町で芝居の出資者であった大久保今助という人が芝居小屋でうな丼を売り始めたことが広まった起源とされています。

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まとめ

うな重は徳川家重の「重」関係があるのかどうか検証してみました。

実際はうな重の「重」はご飯とうなぎを2段に重ねるからだということがわかりました。

徳川家重は大うな重好きで有名であり、この時代にうな重が発案されたのでこのような俗説ができたのだと思われます。

昔のことなので真相はわかりませんが、家重のためにうな重が開発されたなんてこともあるかもしれませんね。

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