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【大奥】田沼が受けた蟄居閉門(ちっきょへいもん)とは?その内容と史実を追ってみた

【大奥】田沼が受けた蟄居閉門(ちっきょへいもん)とは?その内容と史実を追ってみた エンタメ
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10話では男性陣の政に関する絆が主になっていて大奥っぽくなかったですね。
家治、田沼、定信、三人は三人なりの正義があり、誰もがただ権勢が欲しかったわけではなく、国を良くしたかっただけであり、ただ、立場の違いが三人を別々の方向に歩ませてしまった、と言うのが切なくもありました。

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10話で田沼は家治を騙していたことが発覚し、「蟄居閉門」という処分を受けてしまいまいました。
実は史実でも田沼は「蟄居閉門(ちっきょへいもん)」または「閉門蟄居」と言う処罰を受けています。

ところで「蟄居閉門(ちっきょへいもん)」とはどんな刑罰なのでしょうか

史実で田沼はどうして処罰を受けたのか?

この二つについて調べました。

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「蟄居閉門(ちっきょへいもん)」とは?

実は蟄居と閉門は違う刑罰です。

ですかどちらも辛い刑であることは違いありません。

閉門とは

閉門という罰は、江戸時代における身分社会の中で特定の身分に対して適用されるものでした。
武士や僧侶などの身分の高い人々に対して適用されるという点で、社会的地位や責任の大きさに応じた罰則の一環として位置づけられていたことが窺えます。

閉門は文字通り屋敷の門を固定し、窓もふさぐことで、外部との接触を断ち切り、その人の社会からの隔離を意味しています。

また、閉門によって外出が原則として不可能になることから、その人の社会活動や日常生活に大きな制約が加えられます。更に、屋敷の中で静かな謹慎を余儀なくされることで、自己反省や精神的な静穏を促すとともに、社会的な制裁としての効果を持たせることが狙いとされました。

閉門という罰の実施にあたっては、一定の期間が定められ、原則として50日から100日の間であり、その期間を過ぎれば処分は解かれるという事例があったようです。

また、閉門の際には万が一体調を崩した場合には医者を呼ぶことが認められていたり、火災の場合には消火活動に協力することが許されていたりするなど、人道的な配慮がなされていました。これは、被罰者の基本的な人権や安全を尊重し、人間らしい取り扱いを心がけたと考えられます。

さらに、屋敷が崩れそうな状況に陥った場合には、立ち退くことが許されていたことからも、命の安全や財産の保全を優先するという合理的な措置が取られていたことが分かります。

閉門という罰は厳格な制約を伴うものでしたが、人間性や人権の尊重が考慮され、一定の柔軟性が持たれていたことがわかります。

蟄居(ちっきょ)とは?

蟄居という罰は、閉門よりもさらに重い制裁です。

蟄居では、部屋から一歩も外に出ることが許されず、部屋の中でのみ生活を送らなければなりません。

これにより、外部の世界との接触が完全に遮断され、身体的な自由が制限されます。
さらに、風呂に入ったり身だしなみを整えたりすることもできないという厳しい状況でした。

その一方で、食事は家族や使用人などが部屋まで運んできてくれるという情報があり、トイレには行けたという点は救いですね。

蟄居には「蟄居」「蟄居隠居」「永蟄居」と3種類あった

◆蟄居
通常の蟄居には期限が設定されていました。一時的な謹慎のようなものですね。

◆蟄居隠居
武士としての家督を譲り渡し、隠居の身になると言うことです。
蟄居隠居は年齢は関係なく処分の対象になるうえ、隠居をしたとしても蟄居を強いられることです。
残りの余生を、何の希望も見いだせないまま寂しく過ごさなければならなくなります。

◆永蟄居
永蟄居という罰は、隠居蟄居よりもさらに厳しく、部屋には格子がはめられ、外部との接触が完全に遮断されるため、その人の社会的、身体的自由は完全に奪われます。このような状況は現代の終身刑に当たるものと考えられます。

永蟄居が課せられるのは、相当に重い罪を犯した者に対してのみとなります。

さて田沼は家治にどの蟄居を命ぜられたのでしょうか?

ドラマではその種類については語られていませんが、家治が「死罪にする他ないであろう」と言っていることから、
処分が決まるまでの一時的な蟄居ではないかと思われます。

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田沼は史実でも蟄居の刑罰を受けていた!

実は田沼は史実でも蟄居していました。

家治は死の直前に田沼と縁を切ったと言われています。何があったのかはわかっていません。それによって田沼は幕府内で浮いた存在になっていました。

その後家治が亡くなり田沼は失脚してしまいます。

家治が亡くなったのが8月25日、田沼が27日に老中を辞任させられ降格し、その後財産の没収、屋敷も取り上げられ蟄居となりました。

この処罰は当時としてもかなり厳しいもので、反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされています。

反田沼派には松平定信もいたと推測されます。

そして田沼意次は蟄居から二年後に亡くなっています。

一時は政治の中心で国を動かしていたのに最後は寂しいものでした。

田沼意次年表」

1719年 意行長男龍助(意次)誕生。 
1732年14歳7月21日・龍助吉宗公に初のお目見え。享保の大飢饉
1734年16歳3月13日・龍助家重公の西丸詰小姓。300俵。意行・奥向頭取、900石。
12月18日・死去
1735年17歳3月4日・龍助家督相続。 5日・元服、意次。 
1737年19歳12月16日・意次主殿頭となり、従5位下。 
1741年23歳役料300俵・石高1,100石。享保の改革(1716~1745)
1745年27歳9月25日意次、家重公に供奉し本丸に移る。
吉宗公隠居・大御所
11月2日・家重公9代将軍となる。
1746年28歳7月22日・小姓頭取となり役手当100両。 
1747年29歳9月15日・意次御用諸取次見習となる。10月・小川町屋敷拝領
1748年30歳10月・小姓組番頭となり、2,000石に加増。 
1750年32歳 3月・長子意知誕生
1751年33歳7月28日・御側御用取次となる。6月20日・吉宗死去
1755年37歳9月19日・5,000石に加増。 
1758年40歳9月31日・10,000石に加増。
11月18日・相良藩主。
9月28日・呉服橋御門内松平対馬守屋敷拝領
1759年41歳2月5日相良領内巡視出発・17日着。 
1760年42歳大江八幡宮へ御神輿を奉納する。9月・家重公隠居・家治公将軍となる。
2月江戸大火
1762年44歳2月15日・15,000石に加増。 
1764年46歳 12月・人参座を神田紺屋町に設置
1765年47歳4月11日・日光東照宮に石灯籠奉献。9月5日・五匁銀新鋳発行
1767年49歳7月1日・御側用人に昇格。20,000石に加増。
相良城築城拝命。
従4位下。神田橋屋敷拝領
1768年50歳4月11日・相良城鍬入式。意知御小姓頭・200石。
長崎に竜脳座設置。
1769年51歳8月18日・老中格となる。
25,000石に加増。
 
1772年54歳1月15日・老中となる。30,000石に加増。2月・江戸目黒行人坂大火、
屋敷全焼1万両拝借
1773年55歳 9月・南鐐2朱判(表位貨幣)発行。
弟意誠死去
1777年59歳4月21日・37,000石に加増。 
1780年62歳4月・相良城落成意次お国入り
(江戸7日発-相良13日着)(約10日間滞在)
8月・大阪に鉄座・真鍮座を新設する
1781年63歳7月和泉国日根郡にて47,000石に加増。 
1782年64歳 11月・印旛沼・手賀沼干拓、
利根川掘割着工。意知・山城守
1783年65歳7月・浅間山大噴火・死者2万人余。
天明大飢饉5年連続・この年最悪。
3月11日・意知若年寄拝命・蔵米5,000俵給
 
1784年66歳 3月意知(36才)・殿中で佐野政言に刺さる。
政言切腹
1785年67歳1月・河内・三河で57,000石に加増。6月・米の買い占めを禁止
1786年68歳8月・家治死し意次老中を免ぜられる。6月・表日本大洪水、利根川大氾濫
9月・家齊11代将軍。寛政の改革(~1793)
1787年69歳10月・意次蟄居・所領37,000石没収。
孫意明家督相続・奥州下村
10,000石移封。
11月・相良城没収。収城使岡部美濃守。
5月・難民蜂起し、暴動全国に広がる。
6月・松平定信老中首座となる。
1788年70歳7月・意次死す。勝林寺に葬る。
1月16日~2月5日相良城とり壊し。
9月・意明川普請役拝命・
60,000両徴収される

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まとめ

閉門とは今でいう自宅謹慎のようなものです。大体は期間が決まっていました。

そして蟄居は終身刑のようなものです。自宅の一部屋に監禁され、一歩も外に出ることは許されない刑でした。

ドラマで田沼が家治に言い渡されていますが、実は史実でも田沼は蟄居させられています。

史実では家治が亡くなった後、反田沼派によってわずか2日後に老中から降格され財産を没収され、ニカ月後には蟄居となりました。そしてその二年後70歳で死亡しています。

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